メモ/写経
日本はいまだ近代国家に非ず 小室直樹 著
「田中角栄の遺言」平成六年刊 クレスト出版の再発。
討議こそ議会政治のエッセンス。角栄はこの神髄を理解し、体得し、実践した。
自由討議法たる国会法第78条は昭和30年の国会法第五次改正で削除された。
マクス・ヴェーバーは、政治の要は、「変化する状況における決断である」と言った。
斯かる(かかる)決断こそ政治家最大の任務である。
この点においてこそ、政治家は役人とは、根本的に異なる。役人は、与えられた(主体
的には変化しない)状況下における権限の行使である。
◆役人は決められた法律の中でのみ動く。
◆政治家は、必要とあれば、法の外にもでるべき。
◆討議こそ民主主義の要だが、それができなくなった。しなくなった。ほとんどの法律を役人が作っている。腹を括れる政治家がいなくなった。役人を生かし、方向性を示し、責任を取るのが政治家。
自由主義とは、政治の権力から国民の権利を守ること
「自由に臣下の生命、財産を奪っても宜しい」。これが絶対君主である。
近代絶対主義の成立過程は、王権と諸特権との抗争であると言われる。
中世においては多くの制約があった王の大権が、諸特権を打破して絶対性を獲得してゆく過程。
これが、近代絶対主義の成立過程である。
近代絶対主義は恐ろしい。ホッブスはこれを「リヴァイアサン」と呼んだ。
議会主義デモクラシーが機能するための最大の条件は何か。
第一には、国民の代表によって議会が形成されること。
第二に議会における討論によって国策が決定されること。
第三にして最大の条件は、「国会が立法の機能を失っていない」ということ。
→現状失っている
角栄が世を去った今、優曇華(うどんげ)の花のような日本のデモクラシーは
役人クラシー(立法の主体が役人だから)によって踏みにじられているのである。
裁判官は、全て、内閣によって指名又は任命される。任命(指名)は完全に一方的である。
罷免については、国会と内閣との間に見られるような、相互性によるチェックス・アン
ド・バランシズの機能は全く作動しない。
そうなればどうか。原理上は、司法権は立法・行政という他の二権から完全に独立し、「す
べて裁判官は、その良心に従い独立して、その職権を行い、この憲法及び法律にのみ拘束される」。
即ち、立法府、行政府からは、全くの自由であるとはいうものの、現実には必ずしもそうだとも言い切れないものが残る。
英国始めデモクラシー諸国においては、裁判に予断があってはならないと考える。
予断は裁判の禁忌である。それであればこそ、裁判が始まれば、学者評論家は発言を控え、
マスコミも、ごく簡単な経緯しか報道しなくなる。万が一にも、予断が入って、裁判官の
倫理に影響が及ぶと、公平な裁判が出来なくなるからである。
それでは困るから、裁判が始まると、国中がひっそりとしてしまうのである。
これがデモクラシー諸国の常である。
これと正反対なのが日本である。
検事が求刑したただけで被告は有罪と決めつけてしまう。
徳川時代的センス。
「千人の罪人を逃すとも、一人の無辜を刑するなかれ」を実現するためには、どうしても
「裁判とは手続きなり」「裁判とは方法である」という思想に徹しなければならない。
◆権力は「リヴァイアサン」にもなりうるがゆえに、
権利を分離し、それぞれが相互監視する。
司法の重さ。検察の証拠を精査するのが司法。
求刑だけで有罪と決めつける軽さ。角栄を葬りさった。
(ぼんやりとしたまとめ)
> メモなのかもしれないけど、ざっと読みたいから要点かいつまんでくれ。
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